International Dental Clinic(国際歯科) | 日記 | Nさんの思い出

歯は健康の源~人生100年を見据えて

Top >  日記 > Nさんの思い出

International Dental Clinic(国際歯科) の日記

Nさんの思い出

2017.12.23

ワシにはNさんという今でも忘れ得ぬ人がいる。もう、死んで、かれこれ5~6年にもなるだろうか。まあ、今で言うオタクという人物像だと思ってもらえればいい。いろいろ趣味は多彩だったが、なかでも、彼の写真の腕前は、すでに芸術の域に達していたのである。ワシも誘われて、何度か写真撮影会に付き合わされたが、もともと、あんまり興味がないので、熱は入らなかった。大体があー言った撮影会に来るような連中はほとんどがオタク系である。だから、会話もフォーカスがどうのこうのとか露出はなんだかんだとか、レンズはどうのこうのといった話ばかりで、こっちはちんぷんかんぷんで一体何のことかさっぱり分からない。だから、ワシは全然おもしろくなかった。つまり付いていけなかったのである。
 
 しかしである、Nさんの撮った写真はワシがいやいや撮った写真とは全然違っていたのである。そのときは犬山城の天守閣の欄干から着物姿の女の子を撮影する撮影会だったが、Nさんが「目線こっち」と言って撮った写真は見事にモデルの女の子の豊かな表情を捕えていたのである。
 その他、ヌード撮影会にも連れて行ってもらった。当時は豊丸の最盛期の頃である。ストリッパーのお姉さん方が内張りをつけて、そのヌードモデルを撮影するのだった。しかし、普通なら、目線がいやらしくなってしまい、いやらしい写真しか撮れないが、現像した後で見せてもらったNさんの撮った写真は全く違ったのである。それは見事に芸術の域に達していたのである。美しい!そうワシは思ったのである。本当のエロティシズムが漂ってくるではないか!ワシはいつまでも眺めていたいと思ったのである。

 Nさんは確かに純情といえば純情な性格であった。ワシのようなくだらない人間に特に目をかけてくれた。今から思えば、むしろ、Nさんは弱い立場の人間に同情するようなところがあったのだろう。歯科材料屋のSAを首になったのか、円満退職だったのかしらないが、あまり、他人とは協調できなかったのは確かである。それで、一匹狼になったNさんは、たぶんよたよたになった歯医者の顧問などを務めて、生計を立てていたのだろう。そして、好きな一人旅を存分に楽しんでいたのだろう。この一人旅がまた、オタクだったのである。時刻表を片時も離さない。見ればしょっちゅう紙に時刻をメモっているではないか。何がそんなに楽しいのか分からない。それで青春18切符で全国を歩き回るのである。大体、通常2~30キロは平気で歩いていたのだろう。

 そんな彼が持病の糖尿病Ⅰ型をおして四国のお遍路の旅に出ると言い出したのである。そこで、ワシにインシュリンは打ったほうが良いかどうか聞いてきたのである。その頃、ワシはNさんから主治医に対する愚痴を散々聞かされていた。あれを飲めこれを飲め、と医者から指示されても、一向に病状が良くならないことも聞かされていて主治医と喧嘩しずめだったようである。そこで、ワシはじゃあ、一度薬を飲むのを止めてみたら、と提案したのである。そしたら、Nさんも、そうかそうするわ、と言ってインシュリン注射だけもって、お遍路に出かけたのである。ところがである、途中までは結構体の調子もよく、お遍路中に出来た仲間とも内解けていたみたいだったのだが、途中から体の変調を来たし、帰りの新幹線で昏睡状態になり、そのまま名古屋駅を通過してしまうところだったらしいのである。そのことがあって、Nさんはワシに激怒したのである。もし、あのまま昏睡状態で名古屋駅を通過していたら、俺は死んでいたかもしれんのだぞと、烈火のごとく怒り、ワシは栄のオアシスのマクドナルドに呼び出され、彼から謝れと言われたのである。あのメールを医者に見せたら、「これNさん、医療法違反ものですよ」と言われたらしいのである。そして、お前が知りもせんくせに薬を止めろと言ったからこうなったんだと言うのである。しかし、お前は俺の為に言ったことは認めるから、謝れというのである。謝れば許してやる、と言うのである。しかし、さもなくば、医療法違反で、訴えると言い出したのである。さすがにワシも頭にかちんときて、帰り際に「Nさん。訴えるなら好きなようにしやあ」と言ってやったら、Nさんは「おー、そうさせてもらうわ」と言って、その時は別れたのである。尤も、仲違いは長くは続かなかった。

 その後、Nさんとは滋賀の湖東三山寺巡りに行ったり、中仙道を歩いて、馬籠、妻籠を歩いたりしたのである。今から思うとワシはそんなに楽しいとは思わなかったが、さりとて、辛いとは思わなかった。これはこれで、ある程度楽しめたのである。

 その後、Nさんは糖尿病Ⅰ型の病状が悪化し、西部医療センターに入院した。ワシも何度か見舞いに行ったが、それほど熱心に行ったわけではない。思いついたころに行っただけである。そのことをまたNさんになじられ、お前は恩義に冷たいやつだということを怨念たらしくよく言われたのである。そうこうしているうちにNさんの意識が徐々になくなってきて、もう、ワシの顔すら分からなくなってしまった。ワシが「Nさん。徹磨だ。分かるか?」と尋ねると、弱弱しく震える手でベッドの手すりを触るだけだった。それがなんとも哀れに思えたのである。
 
 ワシはてっきり、家族が見舞いに来ているものだと思っていたが、そんな家族に出会ったこともない。そして、ある時、ワシはNさんの意識が戻らないことは知りつつも、いつ、最後になるかも分からないだろうと思い、見舞いに行った。しかし、病室の入り口の名札は既に外されていたのである。そして、もう、Nさんのベッドに彼の姿はなかったのである。結局、Nさんは西部医療センターで意識不明になって、最後には息子さんが引き取り、その先の何とか園で死んだということを、後になって、ある知人から聞かされたのである。

 結局は、Nさんは家族からも見離されていたのである。口では円満離婚だったとか、子供が面倒を見てくれているようなことを言っていたが、全くの、嘘だったのである。本当のことを言うのはNさんのプライドが許さなかったのだろう。尤も、ワシは、そうなったのにはNさんのほうにも、それなりの原因があったのだろうと今では思うのである。

 しかしながら、ワシはNさんのお陰で今の自分の立場があることに感謝している。もし、Nさんが居なかったら、自分はもう、すでにこの世に居なかったのかもしれないのである。確かに人はあまりNさんのことを良く言わない。Nさんは、まず人のいうことを聞かない、だから誰も相手にしないような変人のAB型だった。し、確かに結構、勝手の良いところもあった。他人から言わせれば「あ~、Nさんね。あの人はね~」という感じだった。そして、歯科材料屋のSAでは伝説上の人物ということになっていたらしい。SAを辞めた理由も後日、ある人から聞いたのである。しかし、Nさんが自分で言っていたような円満退職でもなんでもなかったのである。そんな人だったが、なぜかワシみたいな人生を踏み外したような人間には優しかった。又、それなりの具体的な手も差し伸べてくれたのである。
 そして、今でも、あの人が喫茶店を選ぶのに、よりによって、潰れかけたような喫茶店に、飄然として入って行く姿が懐かしくも脳裏をよぎるのである。

日記一覧へ戻る

【PR】  feal [北欧スタイルカフェ フィール]  育伸ゼミ  Hair&Happy life manon  サンモータース  埋没二重整形・切らない美容医療専門|ALMOND CLINIC【アーモンドクリニック】東京新宿