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歯は健康の源~人生100年を見据えて

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「燃えろ、第三の党」構想

2017.04.18

本文は、かつての民主党野田政権が議員定数削減の引き換えに当時の自民党総裁であった安倍晋三に対して、党首討論のおり、衆院解散をぶち上げた際、私は思うところあり、書き上げたものであります。当時を振り返りつつ、又、近年になって、安倍政権に鉄槌を下す必要があるとの思いから、ここに又、公開するものであります。私は当初から、この安倍晋三という男が気に食わない。どうしても気に食わないのであります。そもそも、この男、野田が迫った議員定数の削減の約束をいまだ、実行しておらず、卑劣極まりない野郎だといわざるを得ません。さりとて、他の野党に肩入れするつもりは全く無く、しかしながら、有権者諸氏に言いたいのは、もう、安倍に騙されないで頂きたい。ということであります。アベノミクスはやはり、イリュージョンであり、幻なのだと思うところであります。そして、安倍自民党政権における憲法改正には断固、反対を表明するものであります。そもそも、緊急事態条項とは何ぞや?緊急事態と認識されたら、閣僚が勝手に国民の声を無視して、事を決めても良いものでしょうか?それはヒットラーの歩んだ道と瓜二つであります。ヒットラーは何も独裁政権を打ち立てたのではなく、ワイマール憲法下、きわめて民主的に政権をとったのであり、ワイマール憲法の下で巧妙に非常事態条項を使ったのであります。その結果、国民も知らぬ間にユダヤ人大量虐殺を行う結果になったのであります。かかる事態を見ても分かるように合法的という意味合いが如何にもろく矛盾しているかが分かるかと思います。現官房長官の菅は口を開ければ、合法的に粛々と行なっていくだけだと、さも、自分たちに理があるかのごとく、国民に語りかけておりますが、私から、言わせれば、とんでもない傲慢な言いぐさなのであります。国民は、その合法的という言葉が如何に矛盾に満ち満ちているかを知るべきであります。
そして、もう一度、有権者諸氏に何が本当に良いのか、何が問題なのか、そして、未来を開く鍵は奈辺にあるかを改めて考えてもらえれば、これに優ぐる喜びはないのであります。その思いから、もう一度、拙論を公開するものであります。以下。

私も、今の第三極とやらにならって、新党を立ち上げてみたいと思う。そこで、「燃えろ第三の党」構想をぶち上げてみると共に、今後の日本の姿を私なりに力強くイメージしてみたい。先ずその政策から披瀝してみよう。まづ第一に原発推進。第二にTPP推進。第三に消費税増税一時凍結。第四に年金制度見直し。第五に健康保険医療制度見直し。第六に日米同盟の関係強化と地位協定の撤廃。第七に道州制への移行。第八に憲法改正。というものである。どうだろうか。これを私は「燃えろ八策」と称したい。多分、誰も投票しないだろう。然し、問題提起として見るならおもしろいのではないだろうか?順にこの政策の論拠をつまびらかにしたい。


   先ず 第一に原発推進のことだろう。原発は間違いなく人類が手に入れた第三の火である。今、原発を辞めたら、日本は、もっともっと、経済的に縮小していくだろう。もう既にその兆候はあちらこちらで出始めている。そして、雇用も失われていくだろう。何百万という人間が、もっともっと惨めなつらい境遇におちいっていくだろう。それはひとり、経済だけの問題ではない。犯罪も増え、悲しくて、とても、悲惨な出来事が間接的に起こってくるだろう。原発の善悪は別として、果たしてそれで良いのだろうか?文明の根源はエネルギーである。原発が危険なことは分かっている。しかし、その論を借りるなら、火だって、電気だって、扱い方しだいでは、途方も無く危険なエネルギー源なのである。もちろん、今の原発行政は即刻改めるべきである。原発を利権の温床にするなどもってのほかである。何故なら、利権の温床にするには、あまりにも原発は危険すぎるからである。電力三法などという飴と鞭を使い分けるようなやり方はもう止めるべきである。先ずは国家あるいは地方自治体の元で一元管理をし、そうして、国家あるいは地方自治体に責任を持たせるのである。もう、一つ、原発推進の大きな意味は、わが国は基本的に戦争を放棄しているのである。戦争を放棄している以上、いかにして、周辺諸国からの侵略に備えるか?そこが問題である。悲しいことに、武器を持っていても使わないことが分かっていたら、相手は馬鹿にしてくるのである。戦うことを放棄していれば防衛する以前にやられてしまうのである。周辺諸国から付け入られるのは当然のことである。だから、潜在的に原爆になりうる原発はせめて持っているべきだし、それに付随する技術は持つべきだと考える。それが安全保障の考え方である。それで、良いではないか。わが国は戦争の為の軍隊は持ってはいないのだから、それを堂々と世界に示せばよい。しかし、せめて、その代わりに潜在的な最終兵器を持っていなければ周辺諸国になめられるのは必定なのである。現にもう、我が国は強いことだけを是とする周辺諸国になめられまくっているではないか?それが現実である。そういうことで、原発は国家あるいは地方自治体の元で管理されるのであれば、誰も文句は言わないだろう。そして、電気も豊富に使えることになり、経済も必ず、上向いていくはずである。はたして、風力や太陽電池で日本の重化学工業が動くのだろうか?私は動くとは思えない。次期リニア新幹線にしたって、原発なしでは不可能だろう。だいたい、電気も水も豊富に手に入らなくて、どうして、「ものづくり」など出来ようか?!我が国は世界に冠たる「ものづくり」で成り立っているはずである。エネルギーの枯渇は文明の終焉を意味するのである。よく議論になるのはドイツを見よという議論だが、ドイツはドイツであり、日本とは全く異なる国である。現にドイツはフランスから電気を買っているのである。では、日本が原発が駄目だからと言って、韓国や中国から電気を買えるだろうか?そんなことをしたら、たちまち、彼らの言いなりになってしまうではないか。ドイツはドイツであり、フランスはフランスであり、スペインはスペインであり、日本は当然、日本なのである。みな、特殊な事情のある国なのである。そして、この項の最後にもう一度つけ加えさしてもらうならば、人類の繁栄はなべていかにエネルギーを確保するかということにかかっている。年末の寒風の中、店の入り口でしゃがみこんでいる浮浪者を見た。彼の境地がどうあるにせよ、エネルギーさえふんだんにあれば、こんな光景を見なくてもすむのではないか、私はそう思うのである。原発再稼働に噛みつくように脱原発と騒いでいる連中に言いたい。諸君はそんなに他人のみじめさより、自分たちの安全のほうが大切なのかと。有り余るエネルギーをみんなで分け合ったほうが遥かに有意義ではないのか、私はそう思うのである。
  
  次にTPPのことだろう。一体、我が国は幾ら、農業保護に投入してきたのだろうか?何兆円と投入しているはずだ。にもかかわらず、一向に農業は上向きになっていない。どういうことだ。さらに我が国は減反と称して、米を作らないことを奨励し、作らないことに補助金を出している。それで、米の値段を維持しようとしてきたのだ。こんな馬鹿げた話があるだろうか?作らないことに補助金を出すなんてことは北朝鮮でもありえないことだ。これでは一生懸命米を作ろうなんて気になる訳がないだろう。 これも即刻辞めてもらいたい。TPPどうのこうのよりも、先ずもって、その馬鹿げた病根にこそメスを入れるべきである。 いつまで、農業を甘やかしていくつもりだ。甘えっ子はいつまで経っても成長しない事は旧自民党だって分かっていたはずだ。 票が欲しかっただけだろう。旧自民党の罪行はまだまだ、いくらでもある。


  次の第三の消費税増税一時凍結のことだが、私は、はっきり言って、あまり、財政・金融のことは分からない。しかしながら、我が国にはあの天文学的な累積債務がある。あれを何とかしなくてはならないのではないだろうか?国の借金は国民が貸し手だから、何等問題がないという暴論があるが、はたして、そんなに上手くいくのだろうか?国が返済不能ということに陥らないだろうか?又、国債が暴落して紙切れ同然にならないとも限るまい。国債を買っているのは主に金融機関である。その元手は我々の預金なのだ。とにかく、我が国の累積債務は尋常ではない。歳出は優に税収の倍近く膨らんでいるのだ。したがって、消費税増税もある程度、やむなしと考えるのが良識ある識者の判断だろう。いつまで、借金財政を続けていくつもりか?とはいえ、この足腰が弱くなっている我が国ではまだ、消費税を上げることは少し危険なのではないだろうか?政府は何か景気が上向くから大丈夫みたいなことを言っているようだが、はたして、原発も止めて、年金も医療も現状維持のままで、景気が浮揚してくるのだろうか?歳入が見込めない以上、いかにして歳出を減らすか?それを考えねばなるまい。これらの問題は次の第四、第五の基本政策にも結びついてくる話でもあるので、詳しく、そこでその論拠をつまびらかにしたい。
 
 そこで、第四の年金制度見直しの政策について言及したい。私は無年金者である。つまり、死ぬまで現役で働かなければならない身である。 しかし、その状況を惨めだと思ったこともなければ、理不尽だと思ったこともない。なぜなら、それが当たり前だと思うからである。生き物というのは、そういうものだ。死ぬか生きるかすれすれの所で常に生物は生きているのだ。それが不幸とか幸福とかと言う問題ではない。人類とて動物である。動物は獲物を追っているとき、つまり、生命の糧を得るために死力を尽くす時が、そもそも一番頭も体も活発に動くようにできているのだ。だから、人間でも同じように獲物を追っているときの状態、すなわち、可能性に挑戦しているときが一番頭も体も動くように生理的になっているのだ。それが、幸せな状態であるかどうかというのは又、別の問題である。しかし、間違いなく、その時が一番充実している状態なのであり、それが生きとし生ける者の常態である。
この際、年金制度を根本的に見直したらどうだろうか?人は所詮、遊んで暮らすようにはできていない。遊んでいたら、体も頭もおかしくなってしまう。そして、あんな制度を作っても、官僚のやりたいように使われるだけである。官僚にとってみれば、他人の金である。他人の金だから好き勝手に使う。しかも、官僚だから責任は問われない。こんな馬鹿げた話が一体、どこにあるというのだ。官僚に自分たちの都合の良いように、我々の金を使われて、諸兄はそれでも腹が立たないだろうか?つまるところ、その金で運用と称して、箱物をいっぱい作って、しかも、殆ど全て失敗している。全て我々の金である。これが理不尽と言わずになんと言ったらよいのだろうか? だいたい、官僚が、この競争社会にあって、利益が上げれるほど、この社会は甘くはない。官僚のやることなど、非効率この上ない。しかしながら、他人に金を委ねるということはそういうことである。勝手に使われるということである。諸兄にはあの社会保険庁のずさんな管理の一件はまだ、ご記憶に新しいことと思う。あれは一体、何を意味しているのだろうか?なぜ、年金が消えるのだ?そういうことを考えると、私は、もし、老後に不安があるなら、自分で蓄えておけばいいだけの話ではないか、と思ったりもする。国なんかに頼る必要はまるでないはずである。死ぬまで面倒を見てもらおうと考えるのは幻想である。それは甘えというものであり、一種のたかりである。それでも、年金に頼るしか術のないお年よりも一杯いることは事実なのだろう。しかしながら、問題は、体が充分に動くのに何もやらず、取るものだけは取って、あたかもそれが当然の権利であるかのように思っている人間が多すぎることである。しかも65を過ぎたら、年金が自動的に入ってくるので、働こうという意欲すらなくなってしまう。ところで、今の為政者は地下鉄に乗ったことがあるだろうか?いまや、地下鉄構内には元気な若者?いや、お年寄りが群れをなして、物見遊山に出かける光景が日常茶飯事に見受けられるのはご存知だろうか?もちろん、それが悪いなんてことは全く思わない。結構なことだ。大いに楽しめばいい。老後の人生を謳歌すればよいのだ。 ただし、あれだけの元気があるなら、彼らがやれることは、まだいくらでもあるように思う。今や、我が敬愛する団塊の世代が大量に退職する時代である。しかし、私はあえて彼らに言いたい。あなた方がやるべきことはまだまだ、いくらでもあると。 又、それを彼らも望んでいるのではないだろうか。大分前からだが私は、働く人間の第一層と上の第三層だけがいて、第二層がまるっと、抜け落ちているのに非常な異和感を覚えていた。接着剤の役割を果たす第二層がないために、最前線の若者は何をしていいのかもわからない。技術、あるいは営業の方法の伝達が全く出来ていないのだ。恐らく、かつてのバブル崩壊による大量解雇が原因だろう。 だから、これから退職する団塊の世代にはやるべきことが山のようにあるのである。先ず第一に、今まで培ってきた、自分の全てを、次の世代に伝えていかなければ、これまで生きてきた意味がないのではないだろうか?生き甲斐とはそういうことではないだろうか?ゲートボールに興ずるのを否定するわけでは決してないが、その他に、やるべきことはいくらでもあるはずである。その気になれば、高齢者の力は馬鹿にならないだろう。彼らには何物にも代えがたい経験という知的財産がある。 だから、極端な言い方をすれば、働ける年寄りは働いて、年金受給額も減らせばよい。そうすれば、次世代の負担も軽減されることになる。そして、若者と共に汗を掻けば良いのではないだろうか?と言うと絶対に受け入られないことは分かっているから、次のテーマに移ろう。


第五の健康保険医療制度の見直しについて私見を吐露してみたい。私も医療人のはしくれとして、意見を述べさしていただきたい。そもそも、我が国の保健医療制度というのは出来高払いである。出来高払いというのは、何かしらの医療行為をしなければ報酬が入らないと言うことである。結果は関係ないのである。 しかし、翻って、医療とは何かをもう一度考察してみよう。医療とは疾患を除去して、体を正常な状態に戻し、その人間を社会復帰させることである。つまり、医療とは、その結果を出すことであって、行為自体ではない。医療をするための行為は医術というのであって、それを医療と言うのではない。だから、 明らかに矛盾している。医療は結果であるのに対して、現行の保険制度はその道具に対して報酬を払っているのだ。つまり、道具=何らかの医療行為(医術)という出来高を行わなければ、診療報酬は入らないのである。また、その医療行為の良し悪しは関係ないのである。  疾患が治ろうが治るまいが、現行の保健医療制度はそんなことを規定しているのではなく、その出来高のみで診療報酬を支払っているのだ。治療の結果は保険点数の評価基準にはならないのである。保険点数はあくまで、どういった医療行為(医術)をやったかというその出来高で決まっているのだ。なぜ、そうなっているのか?国民皆保険制度というのは、日本人なら、誰でも、どこに住んでいても、同じサービス=治療が同じ値段で、どんな病院でも受けられるというのが根本の主旨だからである。だから、そんなとこで医療の質など問われないのである。治ろうが、治るまいが関係ないのである。もし、医療の質を問うということになれば、国民皆保険制度は成り立たないのである。なぜなら、病院ごとに医療の質に差が出ては困るからである。もともと、この制度を作ったときに、医療の質など問わないことは織り込み済みだったのだろう。とにかく、現物支給という形で医療という福祉サービスを始めたかったのだろう。我々が提出するレセという請求書の仕組みもその考え方のもと、出来高払いで請求する仕組みになっている。しかし、もう大分前から、それは時代に合わなくなってきている。これがまだ、圧倒的に負担する側が多かったときはそれでもよかった。しかし、今や、それは逆転しつつある。こんなことを今だにず~っとやっているから、医療費が無尽蔵に膨らむのだ。なぜなら、メスを入れれば、入れるほど、報酬がもらえるということになるからだ。医療とは、患者の体を正常に戻すことが目的なのである。そこには厳然として、医療の質が問われなければならない。 結果が伴われなければならないのである。国が言っている少子高齢化だから医療費の高騰をどうやって抑えていこうかと言う議論は元よりだが、もっと、医療の本質に戻って、保健医療制度そのものの、抜本的な改革に乗り出すべきである。国の今やっていることは枝葉末節のことばかりである。なぜ、もっと、健康保険制度の根幹にメスを入れるぐらいのことが出来ないのか?まさか、我が国の保険医療制度が世界最高だと思っているわけではないと思うが。 医療は出来高(医術の量)ではない。結果責任である。そして、今の保険医療制度が、そもそも、医療の劣化を招いているのだ。何も医療は保険が規定しているのではない。健康保険はただ単に医療の一つのあり方(つまり、最大公約数的な医療)を示しているに過ぎない。そして、このテーマの結論として、最後に私が言いたいのは、そもそも少子高齢化というのは、福祉が行き渡ったなによりの証拠であるということである。そして、その意味で、今までの国民皆保険制度というのはある一定の成果をみたのである。しかし、皇后陛下も懸念されておられるように、高齢者が長生きをしているのが何か悪いことのように言う今の世間の風潮は、とても、聞くに耐えない悲しいことである。人は一生を全うして何が悪いのだ。終末医療を提示する前に、高齢者が生き甲斐をもって生きられる社会になぜ、一刻も早くもって行かないのか、そのためには、現在の保健医療制度の仕組みを根本的に見直すべきである。こんなことをしていれば、医療費が際限もなく膨らんでどうしようもなくなってくるのは当たり前のことである。量よりも質の転換を図らなければならないのだ。しかも、誰しも管まるけにされて、ベッドの中で死にたいとは思っていないはずだ。 治る見込みのない患者をいつまで、ベッドにくくりつけておくつもりだ?意識の戻らない患者にいつまで、人工呼吸器をつけていくつもりなのだ?死をつかさどるのは医療の問題ではない。生き物は全て、生まれて死ぬ。その死生観の問題である。もっと、違う最後のあり方があるはずである。そこのところの議論が尽くされていない。このまま何の手立ても打たない国の厚労省の役人に問いたい。終末医療を提示する前にやるべきことはあるはずである。家族に見捨てられた人間だって、いくらでもいるのだ。なぜ、省庁間の壁を破って、終末の生存のあり方を模索しないのか?!それに、人間の最後のあり方はなにも医療だけの問題ではない。それは、立法・司法・行政の全てを結集させてあたらなければならない問題である。私は一人さびしく管まるけにされて死んでいく人間を、もう見たくはない。ベッドにくくりつけられて、管まるけにされて死を待っている状態が医療といえるのか?人の死といえるのか?!と問いているだけである。もう一つだけ苦言を呈したい。昨今の医者のあり方である。医者もパソコンに向き合っているだけで、投薬しかしないのはあれは一体どういうつもりなのか?!まさか、パソコンに診断してもらっているわけではあるまい。医者なら、パソコンに向き合うのではなく、患者と向き合ってもらいたい。 キーボードを叩く前に、患者の背中ぐらい叩いたらどうなのだ?! 某国立の病院では医者はまるっきりやる気がないので、人に聞いたら、あいつらは所詮、公務員で、やってもやらなくても一緒だから、やる気がないのだということである。まだ、白い巨塔のほうがましだと言うのである。


次の第六だが、これについては地位協定の撤廃について論を進めたい。沖縄のことだ。政府も普天間の問題を片付けたかったら、その前に地位協定を撤廃するべく、アメリカと向き合うべきである。人はプライドの動物である。沖縄のプライドに向き合うというのであば、全力を傾注して地位協定を撤廃すべきである。そうすれば沖縄のプライドは救われる。地位協定が撤廃できれば、基地問題も気持ちよく進展するはずである。蓋し、基地問題も危険除去の問題も、その根底にあるのは、米軍が今だに、わが日本を占領国のごとく考えて、地位協定でわが国民を縛っているからに他ならない。その差別を取っ払ってやれば、沖縄は沖縄の問題として、片付いていくはずだ。そして、米軍がいることによって、地域が潤うということも否定すべきではない。それと、国民も沖縄が抱えている問題にもっと、直面すべきだと私は思う。少なくとも我が国の在日米軍の75パーセントは、我が国土の1パーセント足らずの沖縄が負担しているのだという現実をもっと、肝に銘ずるべきである。そして、そこには何百万人という人が生活しているのである。そう考えれば沖縄の問題は自分たちの問題だと思えるはずである。いつまで、沖縄にだけ、負担を強いていくつもりだ。恥ずかしくないのか。身勝手な考えは許されないのだ。沖縄は、まさしく我が日本である。なぜ、もっといたわる気になれないのか。全く別の件だがあえて、ここで言わして頂きたい。被災地の瓦礫処理の問題だ。放射能は測定できないと言っているのに、なぜ、その瓦礫を受け入れることができないのか。被災地の人がかわいそうと言っておきながら、なぜ、その瓦礫処理はノーなのだ。あまりにも身勝手この上ないではないか?私はこんな国民と同じ日本人だと思うと恥ずかしくてしかたがない。諸兄はどう思われるのだろうか?


次の第七の道州制の移行について考察してみたい。もう我が国は明治維新からの中央集権体制の殻から大きく脱皮する時期に来ている。もう硬直化した中央集権体制は必要ではない。あれは過去の遺物である。国のやることは極論をいうなら、防衛・外交・治安・財務の四点だけで良いと思う。後は地方自治に任せるべきである。あんなものがあれば、二重行政が発生するのは当たり前のことである。国がやることと、地方自治、とりわけ市町村単位でやることとは全く別のものである。個人個人の民生にかかわることが国という大きな単位でできるわけがないのである。もう、国は地方のやることに偉そうに口を出さないでもらいたい。国は国防・外交・治安・財務だけに専念してもらいたい。それ以外のことに口を出すのは大きなお世話であり、越権行為である。国は国としての業務だけを唯々諾々としてやってもらいたい。さすれば、あんな巨大な官僚機構も行政組織も国会議員の先生方も必要なくなるではないか?もちろん、二重行政がなくなるのだから、無駄使いもなくなる。とにかく、今現在の組織では国と地方自治体がだぶっているところが多すぎる。国と地方自治体が同じことをやれば、どうなるか、誰の目にも分かるはずである。どこかの党みたいに、学校の教科書の選定にまで口を出すのは論外である。


第八の憲法改正論議になると私には荷が重過ぎるので、又、別の機会に縷々、述べていきたいと思っているところであります。しかしながら、昨今の安倍内閣におけるように憲法改正手続きが困難だからといって、いきなり閣議決定により、解釈変更するがごときやり方は国民主権を無視したあまりにも横柄なやり方である。憲法を変えたいなら先ずは憲法の条文にあるとおり、衆参の三分の二の同意を得て、その上で主権者たる国民に問うべきである。安倍に言いたい。お前は独裁者か。我が日本はお前なんかに主権を委ねた覚えはない。真に国を考えるのであれば、時間がかかろうとも正当な方法で憲法改正をするべきである。又、結局はそちらのほうが早道ではないのか?姑息な方法をとれば、結局は姑息な憲法変更にしかなりかねないのだ。堂々と憲法に則り憲法改正をしたら良いではないか?!それが我が大和の選ぶべき道である。


総括すると、今の元気のない日本の低迷を抜け出すにはやはり、エネルギーの確保が喫緊の課題だと思う。全ての文明はエネルギーの枯渇によって滅びたのである。だからこそ、明るい未来を築くためには、ふんだんなエネルギーが必要なのである。そんなときに風力だ、太陽電池だ、地熱発電だ、電気は地産地消だと言っている方が何か錯誤しているように思えてならない。言ってみれば風力だとか太陽電池というのは竹槍のようなものである。原爆に対して竹槍で向かうようなものである。それが、こっけいに思えてしかたがないのは、一人、私だけだろうか?原発が必要ないと言っている連中に言いたい。諸君は石器時代にでも戻りたいのか?確かに、電気が少しぐらい不足しても生活に何ら支障をきたすことはないだろう。しかしそれでは一部が繁栄しても全てを照らすことはできない。暗いところは余計、暗くなってしまうではないか?!東京だけが明るくても意味がないのだ。これ以上、限界集落を増やすつもりか?!これ以上、シャッター街を増やすつもりなのか?!そして、ここでもっと、考えなければならないのは、何も電力は生活だけに必要なのではない。あらゆる生産活動に電力は必要なのである。だから、報道で耳にする電力は足りているという話はナンセンスもいいところなのである。全ての電力を供給するのに、あんな風車や、太陽からのおこぼれで満たされるのだろうか?!電気をけちっていて、果たして世界に誇る我が大和の全産業は成り立つのだろうか?福島のあの惨事は、何も原発が悪かったのではないはずである。原発を操る側の人間に明らかに慢心があったのだ。防ごうと思えば防ぐことが出来たはずである。もっとも、ああなってしまっては、誰も事故を防ぐことはできなかっただろう。機械は皆そうである。動かすことよりも如何にして止めるか?如何にして原子炉を停止させるか?それがもっとも困難なことなのである。あんなことになる前になぜ、あるべき想定をして、日頃から備えておかなかったのか?あの事故は、安全神話を喧伝してきた東電と政府の怠慢と傲慢さが招いたことである。しかし、これだけ、原発が嫌われる背景には、それが怖いという心理が働いているからだろう。そうだ。原子力は恐ろしい力なのだ。しかし、だからこそ、その中に無限のエネルギーがあるのだ。我々人類は火だって、電気だって、克服してきたのだ。原子力が克服できないわけがないだろう。原子力とて我々人類が作り出した第三の火ではないか。与謝野馨が言うように、人類は絶えず新しい技術を獲得しながら、繁栄してきたのである。今、ここから逃げることは日本人の、ひいては人類の敗北である。わが美しい国土を守りたい気持ちはわかる。しかし、原発と美しい国土が失われるということと何の関係があるのだ。全く関係ない話だろう。ただ、放射能で汚染されるということが何か国土の美しさを台無しにするようなイメージがあるからだけだろう?!それに、人が今日の糧をどうしようかと思っているときに、寒さに震えているときに、国土が美しいも何もないだろう。そうは思われないか。それに、又、ここで原発を辞めてしまえば、必ず、周辺諸国が今より更にわが国を脅かす事態になるだろう。それでも宜しいか?最終兵器たる原爆は持ったものだけが絶対的に優位である。しかし、相手も同じ原爆を持ってしまえば、その意味はほとんどゼロになるのだ。だから、北朝鮮もアメリカに対抗したいがために原爆製造にやっきになっているのだ。だから、そのことをもう一度良く良く考えてもらいたい。わが国は国の交戦権はこれを認めていないのである。国に交戦権がないのにどうやって、自分の国を守るのだ。わが国は、何も原爆を持っているわけではないのだ。しかし、それに変わりうる潜在的な抑止力を常に保持していなければ、どうやって、国を守ることができよう。私の考えははたして、軍国的だろうか?きわめて、現実的なことを言っているにすぎないと思うのだが。又、原発と国土の美しさは十分に両立するはずである。私は未だかつて、日本の原発以上に美しい原発を見たことがない。恵まれた日本の自然の中にあって、ぽっかり、最先端の原子力発電の建て屋が顔をのぞかせる光景は、それが自然と妙にマッチして、圧巻の情景を与えてくれるのである。まさに美しいと私は思う。最後に、我々が豊かな可能性のある社会を実現できるかどうかは、やはり、人次第だと思う。リーダーなき時代だといわれる。はたして、そうだろうか?私は昔、モ-ニングに連載していた「栄光無き英雄たち」という漫画が大好きだった。英雄は何もアレキサンダー大王やナポレオンやチンギス・ハンや毛沢東だけではない。無数の栄光無き英雄たちが居たからこそ、我々は今、こうしてここにいられるのだ。どうか、そのことを忘れないで頂きたい。(ちなみに、私は、毛沢東は大嫌いである。毛沢東は、もうたくさんである。あいつの虚栄心のために、どれだけの人命が奪われたのか?又、そんなやつを英雄視する心情が全く私には分からない。)                                                                                                   
とにもかくにも今回の総選挙の結果が楽しみである。国民は何をどのように判断を下すのだろうか。                                                         最近の各政党の記者会見で、どうしても気になることがあるので、一言だけ言わしていただきたい。 下手に横文字は使わないほうがよいと思うのだが。あれを言われて、すんなり分かる有権者は一割にも満たないと思う。言っているほうは良いつもりで言っているのかも知れないが、言われているほうからすれば、意味が分からない上に自分たちが馬鹿にされていると感じるものである。言いたかったら、もうすでに日本語になっている横文字だけにしたらどうだろうか。 又、最近の風潮として、何かと右傾化する発言が多いのも危惧するところである。 目指すのは右傾化でも再軍備でもない。あくまでも、明るい未来なのだ。 その意味でも我々はかつての軍国主義の轍を踏んではならないのである。北朝鮮を見て頂きたい。先軍政治とか言って、馬鹿なことばかり言っているから、少しも明るい未来が見えてこないではないか。暴力は所詮、暴力によって滅びるのだ。我々はそんなつまらない道を選択してはならないのである。


それと私は、目下進行中である大量に退職するであろう団塊の世代に、もっと頑張ってもらいたい。私はあの団塊の世代の人々をある意味、畏敬の念で見ている。あの団塊の世代はいわゆる、大学闘争の時代である。あの時代は良きにつけ、悪しきにつけ、時代の曲がり角であり、その意味で、人と人とがまさにぶつかり合った時代でもある。団塊の世代だから、当然人口も多い。良い意味でも悪い意味でも、人を押しのけてでも這い上がっていかなければ生きてはいけない時代だったのである。しかし、この病膏盲に陥った日本は再び諸兄の力を必要としている。年金生活でのほほんとしている場合ではない。できることなら、私も後に続きたいと思っている。諸兄の後塵を拝することができれば、この上ない光栄なことである。


又、又、最後に言わさせていただきたい。物事は始めることより、終わらせることのほうが難しい。始めることはいとも簡単である。しかし、終わらせることは至難の業というかほとんど不可能なときもある。かつての太平洋戦争が良い例だし、日常においても関係を断ち切るというのは容易なことではない。しかし、もはや、我が国はカタストロフィ(破局)に陥っているのだ。ここで過去の負の遺産を清算できなかったら、二度と清算できないような気がする。 この選挙はその意味でも二度とないチャンスである。我が国が如何にして過去と決別して、新しい船出に乗りだすか。それが試される総選挙である。改革には痛みが伴う。当たり前のことである。改革を実行しようとすれば、既得権益を切り捨てなければならないからである。だから、古今東西、改革者の末路というのは哀れなことが多い。我が国においても藩政の改革者というのはたいてい、周囲の恨みをかって、あらぬ濡れ衣を着せられ、切腹というケースが多い。しかし、非情だと言われようが、なんと言われようが、切るところは切っていかなければならないのである。そうしなければ、立ち行かなくなってしまうからである。そうしなければ、滅び去ってしまうからである。しかし、それが真の勇者ではないか。それが真の愛ではないのか?! 私は我が大和(ヤマト)を愛している。この国がいとおしい。一度は祖国から見放された身である。しかし、又、私はこの祖国の知られざる一面によって救われたのだ。だからこそ、私は死ぬまで我が大和の行く末を見守り続けようと思っている。そして、私は私なりにこれからも自分の道を歩んでいこうと思っている。誰のためでもない。明日のために。                                                                          
(後記)昔、立川談志が何かのときに言ったせりふに、「国会は国会議員の先生方のためにあり、芸能界はタレントのためにあり、病院は医者のためにあるのであって、そこに、たまたま国民やファンや患者が引っ付いているだけのことだ」と。彼は逆説のつもりで言ったのだろう。が、確かに、裏を返せばそうとも取れるのである。しかし、やはり、そうあってはならない。やはり、国会は国民のためにあり、芸能界はファンのためにあり、病院は患者のためにあらねばならないのである。そして、当たり前にそうあるためにも、もう一度、立ち止まって考えていただけるなら、これに優る喜びはないと私は思っております。いつでも、昔も今もそうだと思いますが、あまりにも原則論と実際の具体的な施策との間にギャップがありすぎる。国会は国民のためにあるのだということを、もう一度噛み締めてもらいたい。あくまで、我々国民がこの国の主権者なのである。なお、趣旨は少しずれるが、国会の代表質問のとき、なぜメモを見ながらしか発言できないのか?あれでは、感情がこもらないし、結局は本当に分かって発言しているとは思えない。自分の主張ぐらい、ペーパーがなくても言えないのだろうか?又、あの議事堂そのものに大きな欠陥がある。なぜ、背中に居る人間に質問をするのか?あのつくりは政府与党が一番高いところに居て、質問者がこともあろうに相手に背を向けた場所で、相手を振り向きながら質問する格好になっている。あんなプロイセン帝国みたいなやりかたはもう、完全に時代遅れである。プロイセンは遥か前にビスマルクの撒いた罠に自分自身が引っかかり滅び去ったではないか?!
それと、もっとも、私が危惧するのは日本の社会は島国であるが故に割りと文化が均一であるせいか、自分と異質な価値観を受け入れるという発想自体が乏しいのではないかということである。その良い例が満州からの帰国者ともともとの日本人との比較である。満州からの帰国者には有名人も多数いるが彼らには一様に島国根性というものが見られない。たぶん、彼らは世界と自分という捉え方なのだろう。だからこそ、飛躍できたのだろうと思う。しかし、その一方で、日本文化は外来のものを巧みに取り入れ、それを更に発展進化させていくという独特の特質をもっている。古来から日本はそうである。おそらく、朝鮮半島を経て、大陸の文明が渡来したのだろうが、それは姿を変え、元のものとは似ても似つかないものに作り変えられていくのである。その手法は見事としか他に言葉が見つからない。しかも、他にあまり類例を見ない。五重の塔しかり、寺院仏閣の大伽藍建造物しかり、日本の着物しかり、新幹線に代表される物作りの技術しかりである。または漢字を巧みに取り入れて、ひらがなとの混合により、文章を作っていくという日本語独自の表現方法も日本ならではの発想といえるのではないだろうか?これで、意味と音がみごとにバランス出来るのである。これは、もう創造といってもよい程である。自分の国をやや斜めに見ているこの私でさえ、こういう日本文化の特質はすごいと心から思っている。このような、ただの物真似を遥かに超えた、外来文化を改造して、さらに進化させていく日本人の特異性は唯一、日本が世界に誇れる特質ではないだろうか?だから、これからの日本も外来文化を巧みに取り入れて、それを自分のものにして世界最高のものを作り上げていけば良いのである。それこそが、日本文化の真骨頂だといえるのではないだろうか?それには、まず、多様的な価値観を受け入れることである。異質な価値観をも、したたかに呑み込むことである。又、人は金銭のみにて生きているわけではない。経済だけでも駄目なのである。そこに多様的な価値観を受け入れ、多様的な文化を育てていくだけの懐の深さがなければ、確固たる文明は築けないと私は危惧している。そして、やはり、第三の火は燃やし続けなければならないだろう。誰かが言っているように原子力エネルギーが間違っているとは私は思わない。高速増殖炉のもんじゅに代表されるような、無限のエネルギーを取り出そうとした試みが間違っているとは私には絶対に思えない。そして、さらにその先にある核融合の技術も、そんなことを言っていたら途絶えてしまうではないか?!原子力エネルギーを否定して、果たして、この地球上に生存する70億とも言われる人類が等しく幸せになれるだろうか?何も私は技術の進歩のために人が犠牲になるのは止むを得ないとは言っていない。そんなことは一言も言っていない。しかし、そういう事故が起こりうるのも承知の上で、雄雄しく前へ前へと夢を追っていくべきであると私は思う。限られたパイを奪い合うのではなく、いかにしてパイを大きくしていくか?それこそが人類の進むべき道ではないのだろうか?又、私に言わせて頂ければ、自然再生エネルギーか原子力かという二者択一の問題ではなく、自然エネルギーの比率も高めていくのと同時に新たなる原子力エネルギーも模索していけば良いのではないのか?!物事は併行して考えていくべきである。なお、自然再生エネルギーとて、自然の力を利用している以上、私は、どこかで自然の秩序を乱しているのだと考える。それなら、原子力もそういう意味では同じことではないのか?!私はそう思うのである。
最後の最後に言わせて頂けるなら、私はこう思う。人は幸せを追っていく存在だという。確かにそうだろう。しかし、その幸せとは一体、何なのだろうか?幸せとは光のことだろうか?だとすれば、一つだけ確実に言えることは不可能という壁を乗り越えたとき、その先に必ず、光が差し込み、眩いばかりの輝きを放っているのが、誰の目にも分かるのではないだろうか?蓋し、人間は絶えず、不可能という壁を乗り越え、可能性を追い求めていくこと自体に無上の喜びを感じる存在だと思うからである。
                                                     
ここまで、お読みいただいて有難う御座いました。なお、ご意見・ご批判等がありましたなら、遠慮なさらず、次のアドレスまで、メールをお寄せください。喜んで、ご拝聴仕ります。私もぜひとも、皆様のご感想が聞きたいと思っております。info@in-dc.biz

「燃えろ、第三の党」構想

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